小関典幸氏(こせきのりゆき。群馬県出身。有限会社 ケイ・アイ・テー・サービスカンパニー代表取締役会長)が長い闘病生活のうえ、11月30日午前5時54分に急逝された。
小関氏は富士重工の社員ドライバーとして第1回日本GPにスバル450でレースデビュー。以降スバル360で鈴鹿や船橋などでレースに出場、第2回日本GPではT1クラスで2位入賞を果たす。67年からスバル1000で耐久レースなどに出場、69年はスバル水平対向エンジンを搭載した自作フォーミュラカー、「上州F3国定」で出場、9位に。
レース活動とともに、69年には上州オートクラブを設立、スバル450で日本アルペンラリーに出場。66年には第8回日本アルペンラリーにスバル1000で出場し、総合3位に入賞する。スバル車による海外ラリー出場も早くから行ない、74年にはレオーネでバハ1000キロに出場、翌75年にはレオーネでバハ1000キロ、サザンクロスラリーに出場するなど、幅広い活躍を見せた。さらに77年にはレオーネでロンドン〜シドニー3万キロラリーに高岡祥郎氏、岡崎宏司氏とともに出場、完走を果たす。
79年にはスバルモータースポーツグループ(SMSG)から、レオーネスイングバックでサファリラリーに出場するなど、STI(スバルテクニカインターナショナル)設立前のモータースポーツ活動を行なってきた。STI設立後もスバル車を使ってのパイクスピークヒルクライムなどに積極的に出場した。また89年、当時デビュー前の初代レガシィによる「10万キロ速度記録」にも参画。ドライバーとしては89年のパイクスピークヒルクライムにレックススーパーチャージャーで出場したのが最後となる。
以降はSMSGによるディーラーメカニックのラリーチーム参加(90年サファリラリーでは、スバル/プロドライブに先駆けSMSGの手になるグループA5台/N1台あわせて6台ものレガシィを持ち込み、グループNでパトリック・ジルが1台のみ完走、優勝を果たしている)などを行ない、底辺でのスバルモータスポーツ活動を支えていた。
その気質と風貌から「オヤブン」と称され親しまれた。享年68。