日産が送り出した生粋のラリーカー
名車と謳われたPA10バイオレットの後を継いで日産のラリーシーンを担った240RS。すべてがラリーカーとして生産され、海外のプライベーターにも愛された240RSは世間の評する不遇のラリーカーでは決してありませんでした。WRC勝利数はゼロ。最高位は1983年の2位1回。しかし鮮やかなトリコロールは、今なお多くのファンの胸に残り、輝きを放ち続けています。その真実の姿に迫ります。
PLAYBACK the Rally Scene 1983-1986
エッジの効いたボディシェイプに、目にも鮮やかな3色のカラーリング。それだけで240RSは他のマシンにはない独特の存在感を放っていました。灼熱のサバンナで、極寒のアスファルトで、誰もが目を奪われたその閃きを、当時の臨場感あふれる写真でお届けします。
240RS開発秘話
“追浜部隊”と呼ばれた特殊車両開発部で、240RSはどのように開発され、どのように進化したのでしょうか。当時実験とエンジン開発に携わった方々に、30年以上の時を経て、当時の試行錯誤とジレンマについて語ってもらいました。
泥と格闘した日々
現在はホシノ・インパル代表として、SUPER GTやスーパーフォーミュラで監督として活躍する星野一義氏。かつては日産のトップドライバーとして走りながら、ラリーカーのテストも担当していました。当時の開発体制や思い出について
Story of Key Person
チーム・ダットサン・ヨーロッパを率いたアンディ・ドーソンに代わり、ヨーロッパでのインポーターを務めたビル・ブライデンシュタイン。240RSの広がりに大きな役割を果たしたひとりの天才的エンジンチューナーが、どのような人生を歩んできたかを読み解きます。
遺跡発掘人が見た夢
アフリカの僻地で遺棄されていた3台の日産240RS。朽ち果てんばかりの個体にふたたび命を吹き込んだのは、ドイツのラリーフォトグラファー、ラインハルト・クラインでした。彼らが奮闘した再生劇の一部始終を紹介します。
イラストで見る、日産240RS WRC全記録
グループ4時代に耐久イベントで圧倒的な強さを誇った日産。より戦闘力の高いグループBの240RSは待望とも言える存在でした。ところが、アウディが持ち込んだクワトロにより、時代は4WDが必須条件に。そして、得意のサファリでも、ついぞ勝利を手にすることはできませんでした。240RS苦闘の歴史を振り返ります。