大御所WRCメディア、マーティン・ホームズが、長年の経験に基づく独自の視点で切り込むMartin’s eye。今回は3月8日に開幕を控えるラリーメキシコを取り上げる。ラリージャパンが初開催された2004年に、同じくWRC初昇格を果たしたこの中米イベントでの、大波乱の思い出を紹介する。
2004年に中米で初めて開催されたラリーメキシコ。しかし、このイベントはそれ以上に、たくさんの特筆すべき出来事があった。
皮肉にも、FIA規定が変更され、その影響を本格的に受ける初めてのラリーだった。イベント開催の基本的なフォーマットが改訂され、全体の会期は最大5日間という制限、フレキシサービス、電子コードを使用してのタイヤコントロール、グラベルノートクルー数の削減、シェイクダウン時間の短縮だ。
こうした変更が、同大会の開催わずか6週間前に行われたのだ!
そして、もう一つの目玉だったのが、スバルの最新モデル、インプレッサWRCだ。4SSが設定されたデイ1では、ペター・ソルベルグが快進撃を見せて首位を奪取。気温の高い午後で、この日の最終ステージが行われたグワナファト北部からサービスへ戻るロードセクションは、とても長く感じられた。マシンは、レオンのポリフォーラム複合施設のTCインの外で、かなり長い時間待たされた。ソルベルグのマシンに採用されていた非常に複雑な電気システムは、完全にはオフにされていなかったため、バッテリーが上がってしまった。このため、マシンを押してタイムコントロールに入り、サービスに戻す以外に手だてはなくなった。しかし、黄色のサインボードから先は上り坂になっている上に、外部から助けを借りることは認められていなかった。
自分たちが応援するクルーが周囲からの手を借りずにマシンを押して坂を上る姿を見て、ノルウェーの大応援団は手を貸そうと慌て走り出した。大変な誤算だ!
彼らはマシンをコントロールにまで持ち込んだが、その一件はしっかりチェックされていた。主催者が与えたペナルティは寛大にも5分だったが、ソルベルグはこれでポディウム圏内から脱落してしまった。フォードのマルコ・マルティン、フランソワ・デュバル、シトロエンのカルロス・サインツとの激戦を経て、ソルベルグは最終的に4位フィニッシュにこぎ着けた。
WRCメキシコではその後も、数え切れないほどの冒険が待ち受けることになるのだが、その先駆けはペター・ソルベルグだったのだ。
(Martin Holmes)