大御所WRCメディア、マーティン・ホームズが、長年の経験に基づく独自の視点で切り込むMartin’s eye。今回はWRC史上稀に見る悪天候に見舞われた2001年のラリーポルトガルを振り返る。
あの3月5日の週は、2001年ラリーポルトガルの主催者にとって、悪夢となった。3月の2週目の開催といえば、例年なら絶好の会期。それが、春をぶち壊すように冬のような天候に逆戻りとなってしまった。この年、季節の変化は通常よりも遅れていた。
HQは新たな場所に移り、ポルト南部、サンタ・マリア・デ・フェイラのユーロパルケとなっていたが、コースは基本的にはそれまでと変わらなかった。それでありながら、この時は霧、雨、洪水、轍、泥、石が入り乱れ、まさに冬の悪天候の要素が全て揃うという難局に遭遇したのだった。この国最大級のモータースポーツイベントは13年間、そして世界選手権イベントとなって5年間、国の北部や中央部で開催されてきたが、それもこの年が最後となった。
悪天候に見舞われたことで、このイベントのおなじみとなっていたスムースでラフな道という特色は消えうせた。会期の前数週間は、雨がほぼ止むことのない日が続いており、道の多くがひどく荒れていた。主催者にとっては、様々な要素と戦う状況に追い込まれた。まずは、レッキのためにコースを明け続けること。そして、競技自体でも走行を可能とすること。イベント前の週末の時点では、天候は回復方向に向かうと見られていた。一時的には太陽がポルトガル北部にも顔をのぞかせたが、その後、さらに雨が降り始めた。レッキは、悪夢だった。プライベーターたちは続々とスタックし、抜け出すために援助が必要になった。
ヒュンダイは唯一、レッキカーに2WD車両を使用していた。ケネス・エリクソンは「ほぼ全てのステージで、常にスタックと隣り合わせの状態だった。ひたすら泥の中を走らなくてはならなかったので、キチンとしたペースノート作りに専念することは不可能だった」と語っている。
シトロエンがエントリーしたのは、サクソのフィリップ・ブガルスキとヘサス・ピュラスだったが、ピュラスはレッキで2回アクシデントに見舞われ、このイベントでは自身のマシンをトーマス・ラドストロムに託し走らせている。イベントの数日前には、ドウロ川に掛かる築100年の橋が崩壊して、59人が命を落とすという惨事も発生した。
ラリーでは、木曜日の午後に行われたシェイクダウンで、スバルのハマッド・アルワハイビがクラッシュして木に激突するというドラマが発生した。この年の選手権規定では、チームズカップのドライバーは、ノミネートしたイベント全てをスタートしなくてはならないと定められていた。普段は使用されていないターマックスペックのスバルが1台、英国バンブリーにあるプロドライブの施設に眠っていたが、チャーター機のアントノフ12に積み込まれ、ラリースタート当日の朝5時15分、コベントリー空港を出発した。ポルトガルに到着したこのマシンは、特別に車検が行われ、イベントのスタートが認められた。
チーム間の戦略は奇妙な状況となっていた。ノミネートできるタイヤトレッドのパターンは2種類だったが、プジョーはそのうち一つにマッドタイヤを選んでいたが、三菱のトミ・マキネンは通常のグラベルタイヤを使用。円周に大きくカットを掘り込んだ。伝統的にこのラリーの試練と言えば、マシンを破壊しかねないようなダメージを避けつつ、全開でのスピードを維持することだった。しかし、この時はとにかく生き残るのみ。この年、ラリー前のテストはポルトガル国外で行われるという有益とは言いがたいもので、近隣のスペインで全て行われた。アルミン・シュバルツは「ラフな道はシュコダにはいいかもしれないね! ポルトガルのコンディションがここまで悪いのは、ここ10年見たことがないと思うよ」と言っている。しかし、それは間違っていた。2台のシュコダはいずれも、SS2でリタイアとなった。
ラリーは木曜日の夜、バルタールでのスーパーSSで始まった。ステージはキャンセルしなくてはならなくなるのではという噂でもちきりだったが、このスーパーSSは地域の人々にとって大切な機会だった。このため、イベント前はコース整備に多大なる努力が費やされた。それでもコンディションが霧と泥で最悪なまま。あげく、霧雨まで舞い始めた。ベストタイムをマークしたのはマキネン。その後をマーカス・グロンホルム、ハリ・ロバンペラとプジョー勢が続いた。94台のうち40台近くが走行した後、ステージ自体をストップさせざるを得なくなった。マキネンは「視界はかなり悪く、どこに行けばいいのかも分からない。20m先も見えない状態だった」と語っている。
金曜日の朝、ラリーが再スタートした時には、天候はさらに大きな壁となって立ちはだかった。最初の3SSはリピート走行の設定だったが、2回走行できたのはSS2/5のみ。SS6は、2WDのコースカーがステージを走り切ることができなかったため、キャンセルとなった。2WDマシンで参戦していたプライベーターは、数々のトラブルに見舞われていた。あるドライバーは、ステージを走り切るのに1時間を費やしたと主張していた。
SS7は安全上の理由からキャンセルとなった。主催者は、雲が低いためにセキュリティのヘリコプターが飛べなかったと語ったが、別の者は救急車が泥でスタックしたからだと語った。ジル・パニッツィは霧に翻弄され「マシンが着地したから、ファフェのジャンプを通過したということだけは分かったよ」と言っている。最終的に4SSの走行を完全に断念。その他も、全コンペティターが通過できるところまでに短縮されたステージが多かった。
土曜日のコンディションはドライとなり、厳しさも軽くなった。マキネンは、このイベントがWRC100戦目で、最終ステージでカルロス・サインツのフォードから8.6秒差で勝利を奪った。これが、三菱にとって最後から2番目の勝利となった。グロンホルムが3位、4位はスバルのリチャード・バーンズだった。新型の第2世代ヒュンダイ・アクセントWRCが6位と7位に入り、WRCチームで完走を逃したのはシュコダだけだった。
2WD勢でフィニッシュに到達できたものは、いなかった。しかし、一番のストーリーはラリーの恐ろしさではなく、その後に待っていた。FIAは習慣化されていたWRCカレンダーの危機を感じていたのだ。WRCは2001年には既に14戦が組み込まれていたが、FIAはドイツのカレンダー昇格に関して大きなプレッシャーを与えられていた。自動車大国であり、東西統一後、ようやく落ち着きを見せていた国が、シリーズに入ってきた。これではじき出された形となったのがラリーポルトガルで、少なくともラリー前半はキャンセルにするべきだったという安全上の理由が決め手となった。
しかし、主催者も難しい状況にあった。ルートの全面変更は、過度の交通渋滞を引き起こすことになりかねず、警察がセキュリティ面でのリスクが高まることになると見ており、選択肢にはなかった。ところがポルトガルの苦境は、FIAにとって政治的なジレンマにはならなかった。理由はどうあれ、ポルトガルはWRCから外れてしまったのだ。
オートモビル・クラブ・デ・ポルトガルはあきらめなかった。2002年から2006年まで、人口の少ない国南部のアルガルベ地方でWRC選手権外ながら人気のラリーを開催していた。地元の自治体は商業面でのサポートをオファーすることができ、このエリアではスペクテイターによる渋滞問題も少なかった。2007年、ポルトガルはWRCに復帰。かつてのようなスピリットはなかったが、全てが落ち着いていた。
選手権プロモーターとチーム陣営は、それでも国北部のファンを思い起こすことができた。ラリー復帰に成功した地方自治体による新しい商業体制は2015年、ラリーを中心地として認知された北部・中部に戻し、再びこの地で楽しき日々が過ごされるようになったのだ。
(Martin Holmes)