帝国の黄昏に見せた光
1992年、すでにランチア本体はWRC活動から撤退。後を託されたのはジョリークラブと、残された精鋭メカニックたちだ。マルティニカラーを纏って戦った“デルトーナ”は、ランチアに最後のマニュファクチャラーズタイトルをもたらす。しかし、その日々も長くは続かなかった。WRCにおいて歩みを止めることは、すなわち後退することと同じ。翌93年シーズン、前年度王者のカルロス・サインツをもってしても、すでにデルタに日本車メーカーの勢いを止める力は残されていなかった。このパート2では、最後のデルタにかかわった様々な人物たちの回想を交えてお送りする。
[Interview With Key Person]
クラウディオ・ロンバルディ
1970年代末の“ランチア+フィアット連合”成立期より本格的にラリーカー開発に携わり、グループBからグループAへの移行、ワークス最終期までをすごしたロンバルディは、成功の理由を市販車との連携だと語る
[PLAYBACK the Rally Scene 1992-1993] 盛者必衰の理に抗え
ランチアが最後にWRC戦線に送り出したHFインテグラーレはそれまでの熟成を活かし、期待に応える活躍を見せて92年のマニュファクチャラーズチャンピオンに輝いた。時代の流れに抗い続けたデルタは翌年未勝利──輝き続けた太陽も、ついに沈む時がやってきたのだった
開発責任者
セルジオ・リモーネの回想
1992年に登場した“デルトーナ”は最強のデルタであったが、そのハイパフォーマンスは初代のHF 4WDから一歩一歩積み上げてきた開発なくしては、獲得できないものだった。グループAデルタのすべて知るアバルトの車体責任者が、ランチアのラリー活動の最終章を総括する
素晴らしき大冒険
クラウディオ・ボルトレットが語るランチア名代の日々
撤退したワークスを継いで、“デルトーナ”と実戦部隊を託されたジョリークラブ。日本メーカーの脅威が迫るなか、彼らは1992~93年シーズンをいかに戦ったのか。大役を担った名番頭ボルトレットが、グループAデルタ最後の日々を語る
RALLY CARS GALLERY
最終形態 デルタが行き着いたひとつの頂点
1987年、ラリーモンテカルロでデビューしたハッチバックの小柄なラリーカーは、度重なる進化を続け6年目のシーズンを迎えて衰えるどころか、さらなる力を見せつけた。細部にちりばめられた様々な工夫はランチアが積み重ねてきた勝利へのメソッドだ
インタビュー
ディディエ・オリオール
“真価”を認めさせた4年間
1988年、チェザーレ・フィオリオはある決断を迫られていた。ミヨーのわんぱく小僧か、マドリッドのマタドールか……ランチア帝国を率いる智将が選んだのは、ディディエ・オリオール。しかし、シエラでコルシカを制したばかりの若者への信頼は低くランチアでの4シーズンをかけて、彼はその実力を周囲に認めさせた。フランス・ミヨーの高台にある自宅で行われた今回のインタビュー。ランチア・ワークスからジョリークラブへの移籍を含めゆっくりと時間をかけて、すべての質問に答えてくれた
LANCIA DELTA HF Integrale
Results Encyclopedia 1992-1993
イラストで見る、ランチア・デルタ
HFインテグラーレ全記録。
ランチアの撤退を受けてワークスチームの活動を引き継いだジョリークラブは、拡幅化されたデルタHFインテグラーレで1992年シーズンのマニュファクチャラーズ選手権を制覇。しかし、ランチアからの支援が途絶えた93年は、前年王者のカルロス・サインツを擁しても、未勝利に終わった。