大御所WRCメディア、マーティン・ホームズが、長年の経験に基づく独自の視点で切り込むMartin’s eye。選手権活性化のために様々な策を講じるFIAとWRCプロモーター。斬新な手法が現状と噛み合っているのか、長年業界を見守り続ける目線からは大きな不安が感じられるようだ。
モンテカルロでのミステリー。今年のラリーモンテカルロで、おそらく最も興味深い話題は、トヨタから初参戦を果たした32歳、エルフィン・エバンスのパフォーマンスだろう。このラリーは彼にとって7回目のモンテカルロだったが、Mスポーツ以外のチームでワークス参戦したWRC戦は初めてだった。8SSを終えた時点で首位に立ったエバンスは、土曜日夜を含めて全体の半分、フィニッシュまで4SSというところまでラリーをリードした。しかしその後、事態は一転、総合3位で終わった。ここまでフィニッシュを目前にしながら、首位から陥落したことを説明するのは難しい。イベントのフィニッシュでエバンスはシンプルに「勝てるだけのポテンシャルがなかったのだと思うが、今日(最終日)は必要なだけのフィーリングが全く感じられなかった。ハードにプッシュしたが、どうにも自然とスピードが上がらなかった。どのコーナーでもキッチリ攻められなかった」と語った。
モンテカルロラリーはドライバーにとって独特のチャレンジであり、あらゆる弱さがそのまま表れてしまう。これこそが、いつかは勝ちたいイベントのひとつであり、最も簡単に負けてしまうラリーである理由だ。現在、トヨタは緊急に内部調査を行わなければならない問題に直面している。エバンスが突然失速したのは、メカニカルのトラブルなのか、その状況に対応できるだけのメンタルが不足していたからなのか。それを完璧に説明する結論は身近にあるのだろうが、そこにたどり着くのはかなり長い道のりになるのかもしれない!
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ラリー界では、クラス区分の混乱が続いている。FIAがクラス区分の混乱を整理するため、小さい数字を最もコンペティティブなマシンのクラスの名前にする(フォーミュラ1のように)ことでファンの混乱を止めようと決断した際、混乱は避けられないことは予想できた。区分の名前順を逆転させるこのシステムは2020年からラリーカテゴリーに施行されたが、旧方式以上に明確に捉えることはできず、改善しなくてはならない危機を引き起こした。基本的には、この問題は、車両区分のシステムに“C”という文字を使い始めたところにあるのだ! この方式では、これまでR5として知られていた車両は、現在はRC2クラスを走っており、R1として知られていたマシンが現在区分されるのは、RC5と呼ばれるクラスだ。
この混乱した考え方は、さらに事態を悪化させた。現在、カーナンバーは、数列ではなく、個人のアピールのために配分されるようになった。米国で何年も使われている形式が伝染されたかのようだ。今年は初めて、FIAはWRCチャンピオンにナンバー1を与えることを断念。今年のラリーモンテカルロでは、カーナンバー1も2も存在しなかった。この全ての混乱の背後にあるのは、他のモータースポーツカテゴリーのどこかで使用されているアバンギャルドな方式で注目を高めようという期待によるものだが、そうした期待を持っている人々は、F1で数列にこだわらずにカーナンバーを配分する方式がうまく機能したことを例に挙げる。しかし、そこには、F1ではカーナンバーの識別は視覚ではなく電子的に行われており、あまりに高速で走り去るためにスペクテイターはマシン上のナンバーを読み取ることはできないという事実は考慮されていない。
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WRCで残念な傾向が高まっていることのひとつに、マシンの外観が多彩ではなくなってきている点がある。これは主に、参戦車両の仕様を統一しようという努力の結果によるもの。この事が最初に注目されたのは数年前、フォード・フィエスタが、WRCのエントリーリストで大勢を占めるようになった時だ。近年はその傾向がさらに強まり、基本的に同様の車両がWRC、WRC2、WRC3、JWRCで適合となり、いずれも外観的にはあまり見分けがつかない。
今年はシトロエン・レーシングがWRC活動から離脱したことで、その傾向が続いている。この混乱はモンテカルロでも続き、WRC2(旧WRC2Pro、マニュファクチャラー支援チームが対象)規定のマシン最上位が、格下を想定していたWRC3(プライベーターチームが対象)の最上位よりも順位が下となった。モンテカルロでは総合リザルトのトップ4はマニュファクチャラー勢3チームのマシンで、WRCチームがノミネートしたマシンが1台は食い込んだが、それ以降の順位は残念な内容となり、R5マシンのトップ5はシトロエンC3が独占。WRC3ドライバーのエリック・カミリがこのラリーのR5勢最上位だったが、チームから部門優勝を命題として背負っていたWRC2ウイナーのマッズ・オストベルグをそれほど脅威にはしていなかった。他の部門もそれほど白熱した展開とはならなかった。サポートの少ないR-GTカテゴリーは、カプラッセのアバルト124ラリーが唯一の参戦で、2WDのトップは米国から新たにRC4と命名されたクラスに参戦したシーン・ジョンストン(プジョー208 R2)の総合27位。米国人がモンテカルロでクラス優勝を果たしたのだ。グレース王妃も喜んだことだろう!
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最後に、最近のコロナウイルスの流行で絶望的な日々を送っている中国のことを考えると、非常に悲しい気持ちになる。武漢は1980年代、かの香港−北京ラリーのオーバーナイトパルクフェルメの場所だった。当時、武漢を訪れた時の思い出は、伝説と言っていいほど。招待されたメディアを運ぶトランスポートや、必要な書類は全て、スポンサーであるタバコ会社「555」の保護下にあった。メディアという立場にとっても、このイベントは長く、チャレンジングで非常に疲れた。デジタルカメラもデータを即時送信する手段もない時代。PR会社のCSSがメディア関係者の手配を一手に引き受けており、私の場合はラリーキャラバンの隊列を離れて、手持ちで写真や原稿を英国に持ち帰るための手配をしてもらった。入国が規制されていた国の真ん中にある武漢を単独で離れるのは少し恐ろしかった。特に、与えられたチケットが無効であることに気付いた時などは。しかし、我々は強行手段を使い、最も短い時間で効果なクロスカントリーのタクシーに乗り、広州から深圳に向かい、無事に母国に帰り着いて取材素材を届けることができたのだ。CSSが故意に私を閉じこめようとしたのか、それとも全てのトラブルが偶然に発生したのか、今となっては分かりようもない。いずれにしても、あの年の香港−北京ラリーの思い出は長く刻み込まれることだろう。何よりも、今は武漢の人たちのことが心配でならない。
(Martin Holmes)